神をこころのなかにすまわせるとは

いま、私が勤務している同志社は、クリスチャンの大学であるが、わたし自身は、キリスト教の信仰を持っていない。 だからといって、神の存在を信じていないわけではない。しかし、神をつねに心の座標軸において生活をしているわけではない。もちろん、家族や同僚、多くの 友人との交流を感謝し、自分一人の力で現在の自分が存在しているとは決して考えてはいない。しかし、最近、神をいつもここに住まわせ、祈りながら生活をし ている人と、都合のいいときだけ神を頼りにするわたしの姿勢では、生き方に決定的な差な差を感じるようになった。

つまり、自分のことは自分で決める、または自分一人で存在しているという「自立した人間」はすばらしいことのように思えるが、同時にその言葉にはおごりと自分の弱さが隠されているのではないか、ということだ。
私の後に私がなく、私の前に私なし、と考えるととても勇気がわくと同時に、「力み」もで、同時に不安にもなる。だが、極力(顔に似合わず)私はこのよう に考えるようにして生きてきたと思っている。もちろん、他者の存在を排除するわけでもなく、他者との相互共存、相互協力関係を前提としたものだが。ただ、 時々、私はこれからどのように生きていけばいいのか、新しい研究のアイディアはこれからも生まれるのか、という不安は常に感じていたし、これを他者と共有 することはできなかった。それは、他者と共有のしようのないものだと考えていたからだ。しかし、人間の存在を越えた神にこれらの不安を全て任せることによ り、これらの不安感から解放されることができるように思った。それは一歩間違えば、オーム真理教に足を踏み入れることかもしれない。全てを任せようとして いるのではない。ただ、人知を超えた部分を神にあずけることにより、より人間らしくいきられるのではないか、それは人間が考えない方がいいのではないか、 と思うのだ。これは神の誤ったとらえ方かもしれない。もちろん、最新の認知心理学でみられるように、人間の意識やものの考え方は人間の手により解明が進ん でいる。しかし、どこまで行っても人間の手の及ばない聖域は残る。それは、これから先の未来に対する期待と同時に不安なのではないだろうか。この部分を私 は神にあずけ、神の声を聞きながら、人間の手によりできることを追求してみたいと思う。話は飛躍するが、これは、なすにまかせよ、”Let it be”という境地によくにているのだと思う。逃げようとしているのはない。人間の領分と神の領分があると言っているだけなのだ。何が人間らしい生き方か? もうすこし考えてみたい。

(1999. 5. 3)

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