明治34年の祖母の死

12日に97才の祖母が天界にかえった。これで、1975年に祖父(父方、多分72才)、93年に祖母(母方、 86才)、98年に祖父(父方、96才)に続き、私の全ての祖父母が現界からいなくなってしまったことになり、さびしいかぎりだ。この年齢をみると両家と もずいぶん長命の家系だと思われるだろう。それは大変ありがたいことであるし、また祖母も天寿を全うしての大往生と言えるかもしれない。しかし、葬式で、 「遺族」と私たちが呼ばれるように、祖母をなくしたことによる心の穴はやはりある。なにしろ、私が生まれてこの方、広島という離れた場所に住んでいるとは いえ、存在自体が当然であったからだ。もうこれで、「おばあちゃん」と呼ぶことも、手紙を書いたり、電話することもなくなってしまった。一つのネットワー クのチャンネルがなくなってしまった感じだ。

昨日の葬式では祖母の歩んだ長い道が紹介されたが、広島に生まれた祖母は、結婚の後、満州の地を踏み(満州鉄道に祖父が勤務)、そこで私の父や叔母を育 て、敗戦の際には命辛々広島に戻ってきた。ここまでで、明治、大正、昭和と激動の時代をまさに地で生きた波乱といえる人生だが、私が知っている祖母のすが たはまだそのずっと後の部分だ。広島に帰ってきてからは、百姓をしながら家計を支え、私たちにもよく野菜や名産の広島菜を送ってくれた。祖母というイメー ジにありがちな優しさを感じることはあまりなかったが、凛として背筋の伸びた信念の人であった。それは祖母が、祖父の死後もひとりで生計を立てていたから かもしれない。

広島弁で特別ということは、ないのかもしれないが、「そんなことしとったら、つまらん」「しーかり、がんばんなさい」というのが祖母の口癖だったようにお もう。さすがに最後にあった昨年の夏には、そのような言葉をいう元気もなかったようだったが、目がそのようにいっているような気がした。

祖 母がいるから、父が存在し、そして私が存在し、そしてその命のリレーは私の息子と娘に渡されていく。その命のリレーとともに、口癖であった、強く生きる姿 勢もまた受け継がれたと思う。人が生き、そして死ぬことは物理的なものかもしれないが、精神の連続性と向上はそのなかで脈々と営まれていくのだ。私は宗教 心と豊かな教育を与えられた。私は、今後の人生の中でいかにわかもとの精神を高めそして、子孫に何を残すことができるのだろうか?そのようなことを考えさ せられた祖母の葬儀であった。そして、広島で生まれたわかもとの精神は、広島から撤退することになろうともそのルーツを忘れることは決してないだろう。

(1999. 2. 15)

Similar Posts:

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です