よき時によき友と出会え

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです(コリントの信徒への手紙 II: 4章18)。

結 婚式にお招きいただき静岡の浜松へ行く機会があった。6年前の短期大学部英米語科のゼミの卒業生のTさんの結婚式。前日が丁度大学の卒業式だったこともあ り、浜松行きののぞみの車内で、彼女の在学中のゼミのことや卒業式、また今は正門の右手に記念碑として残るだけの短期大学部で私自身充実した日々を送らせ て頂いたことなどが、つい昨日のことのように鮮明に浮かんできた。結婚式には同女の卒業生も参加すると聞いていたので、彼女たちに再会できることもひそか に楽しみにしていた。Tさんと同じゼミのメンバーが来ると勝手に思いこんでいたのだ。そのゼミは、互いに学び・刺激しあうことが多く、私がこれまでに担当 したゼミの中でも特に思い出深いゼミのひとつだった。

だが、式場で彼女た ちに再会した際、意外な感じがした。6名の参加者全員、ゼミのメンバーではなく、1回生時に教えていた基礎クラスのメンバーでだったのだ。でも考えてみれ ば、当たり前のことなのかもしれない。入学時のクラスメンバーの印象は、またその初めの一年間の友達との関わり合いは、一世一代の大舞台に招待したくなる くらい強烈なそして美しいものなのだろう。披露宴の間、その6名から聞こえてくる大学時代の話を総合して、私はそんな風にひとりで合点した。

私 は 彼女たちの通常の授業担当だったが、とても愉快な、毎回授業に行くのが楽しみなクラスだった。彼女たちもみんなで会うのは何年ぶりと言っていたが、ほどな く学生時代の彼女たちに戻っていた。私もまた、すぐに6年前の教室の風景が蘇り、授業で大笑いしたことや、彼女たちがLL教室のどの席に座っていたかと いったことまで鮮明に思い出した。披露宴は途中から同窓会とおもむきを変え、予約してた新幹線の切符を変更し、私が京都駅で降りるまで、彼女たちは学生時 代のこと、子育てのこと、アメリカでの生活のこと、仕事のことなどについて時間を惜しんで語り合っていた。

彼 女たちの屈託のない笑顔をみながら、彼女たちは幸せだなあ、と思った。よき時に、よき場所で、よき友に出会った、と思った。一生のうちに出会う人、友人は 数知れないだろう。いくつになってもあらたな友人に出会うことはできる。しかし、大学時代に出会う友人は特別だと思う。この時代に出会う友人ほどその後の 人生に影響を与え、またその支えとなってくれる友人はいない。

4月、そして5月。あらたな大学生活の、あらたなクラスの、あらたなゼミのスタート。あらゆる場所で新たな出会いが始まっている。私自身も新たなゼミやクラスに足を運びながら、互いによき友となってほしいと願わざるを得ない。天の下の出来事にはすべて「定められた時 (season)」があるのだ。私達は会うべくしてこの同志社という素晴らしき場所で出会ったのだろうと思う。仏教でも同じ事を、「縁(えん)」と表現する。宗教の違いがあっても、真理は真理なのだ。

出会いの時、出会いの季節。よき友との出会いを。

友はあなたのすぐ近くにいる。

(同志社女子大学 Chapel News 5月号掲載)

(2005. 5. 15)

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