感じる心

「喜びも悲しみも 立ち止まりはしない めぐりめぐっていくのさ… 」。エンジェルホーム園長の長坂寿也さんのギターの弾き語りの声が、今も頭の中をリフレーンすることがある。

群 馬県榛名町にある新生会を2004年夏、はじめて訪問した。ワークキャンプが始まって3日後の合流。東京までは何度も来た事があったが、上越または長野新 幹線に乗る事も群馬県に足を踏み入れることも初めてであった。新生会での3日間は、様々なことについて考える刺激(動機)と材料(内容)を与えてくれた。

滞 在中にたまたま新生会のチャペルで、倉橋先生と共に話をさせていただく機会があったのだが、その際、私は「ここには大学では教えることのできない、何か を”感じる”経験がつまっている」と話した。そう話したのは、昼のワークが終わった後のミーティングで、20名の大学生が思わず涙する姿を目にしたから だ。涙に心を動かされたから、という単純な事なのかもしれない。しかし、大学生がなぜ涙するのか、当初私には理解できなかった。その涙は滞在中多くの参加 者から溢れ出た。「何がこの新生会にあるのか?」私は頭をひねった。しかし、翌日いくつかのホームをまわってみて、また彼女たちが主催したミニコンサート に立ち会って、その理由がわかった気になった。

それは、一言で言うなら、 ある意味「〜のために」生きることから解放された人達の生き様が放つインパクトなのだろう。「何のために生きているのか?」若き日には必ず自分に問いかけ る、そして友人に問いかける普遍的な問い、しかし、この新生会で生活してみると、「生きていること自体」が重要なのだ、ということに気づく。人は、お金が 稼げるから、社会に貢献できるから、社会に有用であるから、生きている価値があるのではない。もちろんその側面は否定はしない。しかし、そのような考え は、数少ない勝者と引き替えに、多くの敗者を姨捨山に捨て、集団自殺者を産み出すことにつながる。「人は生きていることこそが重要なのだ」というテーゼを この新生会は否応がなく、その場にいる人間に突きつけている、と私は感じた。そして、生きるためには、誰かの力を必要とすることも。

学 生諸姉は、この場で久々に「誰かに私が必要とされている」感覚を思い出したことだろう。小さな頃、例えば小学校の集団登校でお姉さんとして年少者の世話を したような感覚。そして、頼りにされることによる自分の有用性の実感。私も誰かの役に立てる、と。しかし、裏返してみれば、「誰かの世話にならないと生き ていけない段階においても、人は生きることは重要なのだ」ということなのだ。

新生会は榛名山へ続く坂道の途中にある。その先には火葬場がある。とても機能的に見えるこの新生会であるが、私はこのワークキャンプは「生きるとは何か」という忘れかけていた「生への原点」を参加者に考え・感じるように突きつけているようにおもった。

長坂さんは、うたう。「そっと見つめる 人がいるよ、きみにありがとうとてもありがとう、もう会えないあの人にありがとう」(河島英五「生きてりゃいいさ」)。生きることの大切さ、そして人を大切に思える、そんな3日間だった。

(宗教部2004年度ワークキャンプ報告集へ寄稿)

(2005. 2. 4)

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