教えられたように教えないむずかしさ

もうすぐ、教育実習の季節(?)がめぐってきます。この同志社女子大学で教職を担当して晴れて今年で5年目になる わけですが、学生のみなさんに模擬授業をしてもらうたびに感じるのが、「自分が教えられたような授業をしない」ことの難しさです。女子大で英語を専攻して いる学生にみなさんに、教職科目で「みなさんはどのような授業を受けてきましたか?」という質問を必ずすることにしています。すると判で押したように「文 法訳読方式の授業」、「受験のための暗記授業」という答えが返ってきます。では、それは自分にとって役に立ちましたか?楽しかったですか?と聞くと、楽し いと答える人は、まあいませんよね。もちろん、文法学習に楽しいところはありますが。….

ここからが、問題なのですが、そのようなみなさんに英語の模擬授業をしてもらうと、つい、いままで批判してきたはずの、あの文法訳読方式になってしまうん ですね。蛙の子はカエルということなんでしょうか。でも、これは教職課程で英語科教授法を教えている私たちの責任なんですけどね。これに代わるような、有 効な教え方を学生のみなさんにわかるように教えていないだけだと、批判の声が聞こえてきそうです。

でも、ここで問題にしたいのは、実は学生のみなさんの模擬授業のことではなくて、実は自分の授業のことなんです。新学期がはじまって、さっそうとさまざま な授業が始まりましたが、実は私は内心、どのようにこれからの授業を変えていったらいいか、いつも考えあぐねています。特に、ゼミです。蛙の子はカエルと いいましたが、あれは実は私のことで、私が「大学で習ったよう」なスタイルでついゼミを進めている自分にハッとします。あのころ、私は、ゼミに対してすご く批判的でした。英文を読んで、それをレポートするだけのゼミ。本文からはなかなか抜け出せない。何のためにこのテキストを読んでいるかすら、時として見 失っている自分。もちろん、自分が悪かったのでしょう。でも、教員になって、ゼミを担当するようになって、同じスタイルでゼミをしている自分に唖然としま した。「教えられたように教えるな!」これは誰に聞いたか忘れましたが、今の自分に言い聞かせたいことばだと思います。
その点、これから抜け出すいい方法に関して、かすかな光が見えたような気がすることがあります。それは、ほかの先生と授業プランについて話すことです。 もちろん、Faculty Development (FD)として大学における授業改革についても盛んに研究議論されていますが、身近にいる同僚と意見交流をすること、これにより新しい授業の姿をまなぶこ とができる可能性が(回りくどいね)あります。先日も、E沢先生、I田先生と談笑していてそんなことをふと思いました。でも、これが、英米語科じゃなく て、他学科の先生だったらもっと根本的に違ったアイディアがあるだろうな、と思います。その意味では、1999年4月16日に立ち上がった「らんがく事始 め」はわたしにとってわくわくするような、企画となりそうだ。

(1999 4.19)

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