10年後の祖母からの返信

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです(コリントの信徒への手紙 II: 4章18)。

祖母が他界して今年で10年。もう子どもたちの誰もが帰る可能性がなくなってしまったということで、広島にあった家を処分することになった。父からすると、故郷を長らく離れていたとはいえ、心のふるさとがなくなってしまうことに寂寥の思いだったにちがいない。数年に1回程度訪れる場所ではあったが、寂しさがこみ上げてくる。

思い返せば、広島郊外の祖父母の家をはじめて訪れたのは、小学3年の時だった。当時、山陽新幹線もなく、わくわくしながら呉線回りの「特急しおじ」に乗って行ったこと、五右衛門風呂のフタに乗り損ねて熱かったこと、原爆資料館のショックがあまりに大きく眠れなかったこと、宮島で穴子弁当を食べすぎてお腹をこわしたこと、など鮮明な記憶が蘇ってくる。

ハワイ生まれで満州鉄道の駅長をしていた祖父が、いつも優しい眼差しを私達に向けていたのに比べ、祖母は厳しかった。朝から晩まで畑仕事に精を出し、凛として、孫である私達を甘やかしたり、優しい言葉をかけることはなかった。「そんなことしとったら、つまらん」、「しっかり、がんばんなさい」、というのが明治生まれの祖母の口癖だった。

祖母の家の片付けを終えた父と久々に会った際、ひと包みの封筒を手渡された。中を見た私は、しばらく言葉を失った。そこには、ことある毎に祖母に送った20年分の手紙や絵はがき、年賀状がおさめられていた。祖母からの年賀状は印刷のもので、手紙を送っても音沙汰がなかったので、祖母は私達にあまり興味がないのかとも思っていた。

手紙の束は、大学入学後の私の人生の記録のようであった。浪人の末の大学合格、就職、一人暮らし、中学の教師の頃、結婚、大学院への進学、子どもの誕生、初めての学会発表、七五三、小学校入学、ヨーロッパ、アメリカ、カナダ。口には出さなかったものの、祖母は、遠く広島の地で私達の成長を見守っていた。死後10年も経ってからそれに気づくとは、まだまだ修行が足りない。見守るとはこのようなことかもしれない。

すぐに結果や見返りを探す風潮があるが、愛情とはこのように、再確認することのないもの、なのかもしれない。考えてみると、どれだけ多くの人の愛情を受けて成長してきたのかと思う。受ける側が成長しないと、本当の愛情には気づけない。(Yonge)

(2009年11月、同志社女子大学宗教部Chapel News 11月号に掲載)

(2009. 11.)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">